「日本国憲法改正国民投票制度とメディアとの関係」について、日本雑誌協会の方々にご意見を伺いました。
北神質疑
2006年4月20日 憲法調査会
○中山委員長 次に、北神圭朗君。
○北神委員 民主党の北神圭朗でございます。
本日は、雑誌協会の皆様方に貴重なお話をいただきまして、まずは感謝申し上げたいと思います。
本日は、私、先ほども雑誌といわゆる放送の話が出まして、先週も当委員会で放送協会の皆さんの御意見も聞いたり議論をしたりしたわけでございますが、雑誌と放送の最も大きな違いの一つは、放送の方は放送法という法律によってある程度公正中立性とか政治的な中立性とか、そういったものが担保されているというか、縛りがかかっている。一方、雑誌の方はそういった法律がない。いろいろ内部的な、第三者機関とかそういったものはあるというふうに思いますが、そういったことを踏まえていろいろお話を伺いたいというふうに思います。
それで、雑誌はいろいろなジャンルがあるというふうにおっしゃっておられますが、特にこの憲法改正、あるいは私たち民主党は国民投票法案は憲法だけじゃなくていろいろな喫緊の政策課題、そういったものも対象にすべきだというふうに主張しておりますが、その中で、特に私は個人的に、問題となり得るのは週刊誌かなというふうに思っております。本日は、協会の立場であられるというふうに思いますが、特に週刊誌について、皆さんの経験とかそういったものを踏まえていろいろお聞かせ願えればというふうに思っております。
まず、週刊誌というものは、グラビアから芸能ネタから、いろいろなものが雑多に入っているわけでございますが、きょう問題にしたいのは、政策的な記事とか憲法改正に関する記事、そういった性質の記事の部分なんですが、そういったことについて週刊誌というのは非常に微妙な位置づけだと思うんですよ。
というのは、外国にも、広範に読まれて、かつ、いわゆるオピニオン雑誌でもないし専門性の高い雑誌でもない、新聞でもない、一方でスポーツ新聞みたいな、そういった位置づけでもない。アメリカに、例えばナショナル・インクワイアラー、ああいう雑誌がありますよね。宇宙人の死体が車のトランクで見つかったとか、エルビス・プレスリーはまだ生きているとか。
そういった記事を載せている雑誌は非常に限られた人たちが読むし、みんな一定の距離感を持ってその記事を読むんだと思うんですが、日本の週刊誌というのは、官僚の人たちも読んでいるし、国会でも週刊誌のネタをベースに質疑をしたりする。一方で、「中央公論」とか「世界」とか、そういったまじめな、まじめななんて言ったら失礼ですけれども、やはりちょっと距離を置いて読むわけですよね、週刊誌の方は。
それは、もちろん週刊誌の一つの、ニッチを求めて、そういった戦略的にやっている部分もあると思うんですが、問題は、どういうふうに位置づけを考えているのかという具体的な意味合いで、公正中立というのは、例えば新聞とか総合雑誌とか、そういったところは多分比較的厳格に考えておられる。週刊誌の方は、まあこのぐらいだったら許されるんじゃないかとか、ほかの新聞とか総合雑誌に比べて差別化を図っていると思うんですが、その辺、どういうふうに週刊誌の方々は考えているのかなということをお聞きしたいと思います。
○鈴木参考人 今おっしゃったことが当たっているところは多くて、週刊誌というのは世界に冠たるといいますか、ほかに類を見ない。週刊誌といっても総合週刊誌ですね、週刊誌というジャンルは、実際には一週間に一回出るものはすべて週刊誌ですから。ただ、日本で言う週刊誌というのは、今おっしゃったような、想像されているような数誌だと思うんですが。
週刊誌が提供しているものの一つには、さっきちょっと申し上げたこととも関連するんですけれども、物の見方というのがありますね。週刊誌的な、週刊誌に載っているということで皆さんが共通の理解を持つ。プラスの部分もマイナスの部分もあると思うんですが、皆さんもよくそういう発言をされる。それだけ週刊誌が今までこの社会で果たしてきた役割が大きいんじゃないかなと私は思っています。
週刊誌の中にさまざまな意見が載る、それは月刊誌も含めて、さっきちょっと申し上げたように、右から左まで、あるいは前から後ろから、いろいろな形で意見が載りますけれども、一つは、今のようなこういう憲法問題について語るときは、だれがどういう意見を持っているのかということを明確にする必要があると思います。だれが言っているんだ、あるいはだれがこういう主張を持っているんだ、あるいはどういう集団がどういう考えを持ってこういうことをしているのか。そういう部分に関してはきちんと、だれがということが必要だと思います。
それから、週刊誌の持っているもう一つの側面としては、週刊誌にはそれぞれの主張がありますね。週刊誌あるいは出版社というのは報道機関であり言論機関なわけですから、自分たちが言明すべきことはきちんと言明をしていこう、それについては我々の意見である、こういうふうにしていただきたい、あるいはこういうことを期待するということはきちんと各誌述べていると思います。
それで、そういうものが明確でないと、記事というのはどっちつかずになるのか、あるいは論点が明確でなかったり、もっと言えばおもしろくなかったりということで、読者の鉄槌が下るというのか、買ってくれなくなるわけですね。そこが、さっき申し上げたように、週刊誌が毎週毎週の試験を受けているというのか、あるいは毎週毎週点数をつけられているゆえんだと思います。
○北神委員 ありがとうございます。
多様な論点あるいは事実関係をはっきりさせる、さらには週刊誌それぞれの、雑誌の主張というものをしっかりとするというようなお話でしたが、私が特にお聞きしたいのは、言論の責任という部分があると思うんです。そして、新聞とかほかの総合雑誌みたいなところはかなりそういう緊張感みたいなものが見られるんですけれども、週刊誌について、別に私、週刊誌に取り上げられたとか、ここで復讐を図ろうとか、そういうつもりは全然、全くそういう経験もないんですが、そういうことではなくて客観的に。
というのは、これは日本の言論の一つの特性だというふうに思っておりまして、週刊誌だけじゃなくてテレビとかでも、お笑い芸人とかあるいはスポーツ選手までも政治に関していろいろコメントするというのは、余りほかの国では見られないんですよ。
これは私はビートたけし現象というふうに言っているんですけれども、お笑い芸人が政治的なコメントを例えば何か発言をして、政策的な意見を述べたときに、それがある期間を経て、結局それは間違っていた、間違った判断だった、そういうことが判明したときに、その言論の責任というものを追及しようとすると、いやいや、おれはお笑い芸人だ、君は何でそんなまじめにおれに責任を追及しようとしているんだ、こういう非常に言い逃れられる、無責任な部分が出てくると思うんですね。
週刊誌はそこまでとは思わないんですが、どちらかというと雑誌の中でそういった部分が強い。これはもちろん、皆さんおっしゃるように表現の自由というものは極めて大事なことだし、それを保障するというのは大事だというふうに思うんですが、そういった微妙な部分について週刊誌にはやや緊張感がない部分が見られるんではないかというふうに思うんですが、そういったところについてどういうふうにお考えかというのを教えていただければと思います。
○鈴木参考人 テレビのことは私は答える立場にありませんので。ただ、今の感想として言わせていただくと、スポーツ選手の国会議員の方は発言権がないのかなというんで、皆さん大変だろうなというのは感想として持ちます。彼らは発言には責任を持っていないというふうにも受け取れますので、それはちょっと今の感想なんですけれども、雑誌というのはそういうふうにいろいろな考え方を持つということの証左かもしれません。
今の責任感とか緊張感ということでいえば、週刊誌というのは、多くの人に読んでいただくために、言ってみれば平仮名で書いているようなところがあります。つまり、漢字で書いてあれば難しくて正しいことであって、平仮名や片仮名で書いてあることは真実を伝えていないのかということにもつながると思うんです。
これは随分昔に教科書で読みましたけれども、野口英世の母の手紙なんというのは、片仮名と、漢字も入っていましたかね、そういうもので、読まれて実に大きな感動を与えるというふうに教わった覚えがあります。それと同じで、週刊誌というのは、たくさんの人に伝えるためにさまざまな工夫をして、それは写真を使っていたり、あるいは、時に漫画を使っていたり、風刺をしたり、相手に自分の真意を伝えるためにさまざまな工夫を凝らします。それをもってまじめであるかないかという御判断は、読者にゆだねるしかないわけです。
それから、責任ということに関していえば、新聞あるいはテレビと決定的に違うところがありまして、すべての週刊誌は、ごらんになっていただけばわかりますけれども、毎号後ろに編集人と発行人の名前を載せております。要するに、その人が責任を持つということですね。その号についてのすべての責任はその二人が持つわけですから、これをもって無責任だと言われるのは非常に、なかなかそれが伝わっていないのかなということは考えてまいりたいと思います。
○北神委員 わかりました。その発行人、編集人のいわゆる個人的な責任が明確になっているという部分は私も勉強になったというふうに思います。
別にきょうは週刊誌批判をするつもりは全くなくて、こういった憲法の問題で、あるいは重要な政策課題で、先ほど山参考人の方から、なかなか言論の自由を濫用する想定ができない、そういう具体的な想定ができないというお話がありましたが、極端な話をすれば、例えば憲法改正をするという記事があって、そこに何か戦争の場面の写真を載せたり、そういったことも一つの誘導的な意図としてあり得るわけですし、逆に言えば、憲法を改正しない方がいいという立場だったら、すごく田園的な写真がそこに載っていたり、これは写真だけの話ですが。そういった意味で、ある意味では非常に短絡的な結論というものを載せるということは、一つ読者の意見形成をゆがめる可能性も出てくるというふうに思うんです。
そこは別に厳密にどうするか、法的にやるかどうかという話はいろいろあると思うんですが、具体的に、週刊誌の中でそういったことに対して、特に憲法の問題というのは、今まで日本の戦後の歴史の中あるいは日本の歴史の中で国民投票にかけるという事例はなかったわけですから、ある意味では国の形を決める話であり、国家権力をいかに制約するかという極めて大事な話の中で、今の時点で憲法の話が議論の俎上にのっているところで、雑誌の編集者の中とかあるいは会社の中で、これについてどういう考え方で取り組んでいくかということは議論されているのかどうか、お聞きしたいと思います。
○山参考人 私が知っている限りはほとんど聞いたことがございません。週刊誌というのがこういうテーマを取り上げるときには、先ほどちょっと、憲法を改正されるとあなたも戦場に行かなければいけなくなるという考え方は事実をゆがめるのか否か。これは私ども、そういう記事があったとしても事実をゆがめているとは思いません。例えばそういう編集方針があったとしても、それも一つの見方です。憲法改正、自衛軍というのを、例えば自民党の五十周年の改正草案の中で九条二項を削除して自衛軍ということ、これは別に、自衛軍というのがすぐ戦争ということで結びつくかどうかというと議論の分かれるところですし、それは自衛軍を創設するということは戦争につながるじゃないかという考え方だってあるわけですね。
それで、戦争というので、今度は、今イラクに派兵されている自衛隊の問題なんかでも、これに関しても、私どもからすれば、もっとちゃんと報道しろよということを言いたいですね。物すごい報道規制があるような気がしてしようがないし、それに関して週刊誌はおかしいじゃないかと何度も何度も書いていますよね。実際に、イラクの自衛隊は何をしているんだと。
それから、犠牲になられた外務省の方々についても、あの報道はアメリカと日本のできレースじゃないのかという記事があった場合に、それはそういう見方があっても構わないわけですね。犠牲になられたのは、何で殺されたのかということに関しての情報が、例えば米軍の誤射ではないのかというようなのが何度も記事になりましたけれども、そういうものも一つの情報としてもたらされた場合には何らかの形での取材を始めますよね。それで取材を始めた結果、そういう疑いもあるという記事をつくるのは構わないと思います。
それと同じように、憲法改正に関しても、これは、例えば私の手元にありますけれども、週刊文春だ、週刊新潮だ、現代だ、ポストだと、それぞれが憲法改正に対しての、どんな論者を選ぶのか、この改正されることによって何がどうなるのかということに対するさまざまな見方の記事をさまざまな方法で報ずることは何らゆがめることにならないと思いますけれども、そこのところは私は先生とは全然違います。
○北神委員 私もいろいろな意見があっていいというふうに思うんですよ。
それで、さっきの話だったら、我が党も実はメディア規制というのは設けない、基本的に自由にするという立場なんですね。その一つの理由として、今おっしゃったように、例えば憲法九条を改正して即戦争状態になるというようなことが虚偽かどうか、あるいは公正かどうかということは、ある程度の期間を置かないと、なかなか一義的には判断できない、それはおっしゃるとおりだと思うんですよ。ただ、その結論に至るまでのある程度の論理とか、そういったものはやはり非常に大事だと。
そして、申し上げたいのは、そういった結論とか意見とか、そういったものはいろいろあっていいというふうに思うんですが、センセーショナリズムにならないかどうか。この部分が、先ほど申し上げているように、特に私が感じる感じでは、週刊誌の場合、非常に微妙な部分がある。
だから、そこをぜひまたお聞きしたいんですけれども、どこからどこまでセンセーショナリズムになるのかというのは非常に難しい抽象的な話だというふうに思いますが、恐らく、週刊誌の記者や編集長の中でそこの区分というものに対する考え方とか、そういったものがあるのではないかというふうに思うんですが、そこはいかがでしょうか。
○山参考人 ありません。
センセーショナリズムだと思って、もし、オオカミ少年じゃありませんけれども、そういう報道を繰り返すと、やがて読者は離れていきますよね。おまえ、何をやっているんだということで批判が来ると思います。それぞれの編集長なり編集者なりが同じことを繰り返して、読者がそれを信じるというふうな意味でいいますと、やはりこういう記事のつくり方に対しておかしいと思ったらどんどん離れていくわけですね。
先生おっしゃるような意味でいいますと、割と週刊誌は残酷なんですよ。正直言って、売れるということが読者の支持があるというふうに考えるとすれば、この読者の支持は簡単に離れますし、ある記事で支持がついた場合は、その連載の記事とか追及の記事が非常に歓迎される場合は、社会はぜひこれはもっと追及してほしいと願っているというふうに見るわけですね。
ですから、編集長の判断によって、この記事のインパクトといいますか影響力といいますか、そういうものがどのようにあるかということは各編集長の判断なんですね。それで、その編集長の判断がずれている場合、荒唐無稽だとか、あるいは、こんなことはまさかないだろうとか、こんな記事のつくり方はおかしいということになりますと、それは読者の反応にすごく端的にあらわれるものなんです。ですから、さっき生き物と言いましたけれども、簡単に休刊、廃刊ということもあり得ます。
ですから、我々としても、さっき緊張感が非常に足りないんじゃないかということをおっしゃっていましたけれども、緊張感はかなり大きいものがございます。編集も、正直言って、週刊誌の編集部に何年かいますと、どこか体を壊します。それぐらい忙しいですね。ですから、その辺から考えますと、割と少人数で、限られた期間に集中的な取材をしますから、やはりなかなか緊張感のある職場だと、私も二十年いましたけれども、そう思っております。隣の鈴木は編集長も経験していますので、かなりそれを経験していますので言えると思うんですけれども。
答えになっているかどうかわかりませんけれども、そのような感想を持ちます。
○北神委員 皆さんのお話を伺っていると、責任の問題というのは基本的には市場原理だということですよね。そこの記事で信頼を失ったりしたら読者が離れて廃刊に追い込まれるとか、そういったことだというふうに思います。
それで、緊張感がないというのは、決して皆さんが一生懸命やっていないとかそういう意味合いでは全然なくて、営業的には非常な緊張感があるというふうに思いますが、言ってみれば、私が申し上げたいのは言論の責任という部分について緊張感があるかどうかということでありまして、それも断言するつもりはないんですよ、私も。皆さんが持っていないということを申し上げるつもりはないんです。
一つ、言論の責任の部分でぜひ皆さんにむしろ教えていただきたいのは、よく報道の中立性とか公正性とかいうふうに言われておりまして、特に新聞なんかは割と中立な立場を意識的にとろうとする。これは一見すごくいいようにも見えるんですが、実は、その中立の名のもとで体制擁護をしたり、あるいは中立の名のもとで反体制的な誘導をしたり、いろいろ微妙な操作というものができるというふうに思っているんですね。
先ほども、雑誌の編集長が非常に強い権限を持っていて、編集長の方針というものが、絶対的まではいかないかもしれないけれども非常に重要だというお話もありましたが、私が思うに、例えばイギリスのロンドン・エコノミストという雑誌とかあるいは新聞でもアメリカのニューヨーク・タイムズとか、こういったところは割と、例えば大統領選挙でも、我々は、ニューヨーク・タイムズは共和党を支持するとか、あるいは民主党の候補者を支持するとか、明確にするんです。
これは中立性に違反するように見えるかもしれないけれども、実は、その方が読者も、ああ、この雑誌はこういう立場なんだ、この雑誌は憲法改正反対なんだということが明確にわかっていれば、その中に含まれている記事についても割と距離感というものを調整できるし、割と正当に判断する手だてにもなる。
もう一つ、利点として申し上げれば、はっきりとスタンスを明確に打ち出していてそれが後になって結果的に間違っていたときには、そこに具体的な言論の責任というものが生じると思うんですよ。つまり、ニューヨーク・タイムズの例で言えば、我々はクリントンを推したけれどもクリントンは結局こういう失敗をして国民の支持を失ってしまった、我々は当初推していた理由はこうこうだったけれども、結局ここでこういう点について判断を間違えて、我々もある意味では判断の間違いをしてしまったという意味で、はっきりと社論を前面に出していた方が言論の責任というものが明確になるという部分があると思うんです。
その点について、まず、週刊誌が実際に、例えば憲法の問題について統一した見解で、いろいろな雑多な、評論家を使って意見を載せるんじゃなくて、統一した、改正賛成、九条改正賛成だといった一貫した方針のもとで編集をするのか。そして、する場合にせよしない場合にせよ、その方が公正中立とか言論の責任の観点からいいのかどうかという皆さんのお考えをちょっと伺いたいというふうに思います。
○山参考人 ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・エコノミストという雑誌が持っている社会的なオピニオン誌としての受けとめ方、あるいはその言論機関としての役割、これは明らかだと思います。これはもう社会的に認知されておると思いますね、その雑誌はそういう立場の雑誌だと。
日本の週刊誌は、言論機関としての認知は、されている要素もあると思うんですけれども、娯楽性とか、あるいは中の記事に関する信頼性あるいは信用性、あるいは中の記事をどういうふうにとらえるかといった場合に、言論機関として受けとめられている要素というのは、一部はあると思いますけれども、言論機関としてこの雑誌のこの方針は、ニューヨーク・タイムズと同じように、世の中に対して真っ当な形、真っ当と言うと語弊がありますけれども、世の中の方向性を決めるというふうな形での受けとめられ方はしておらないと思うんです。
だからといって言論機関としての責任がないのかといいますと、そうじゃないんです。つくっている記事記事に関しては、その記事がもし人を傷つけたり、あるいは社会の方向性に対して、社会のやはりある常識とかあるいは世論に対して全くのでたらめなことをやったり、とんでもない侵害をしていた場合には、その責任問題には当然つながっていきます。
ですから、言論機関として記事の特徴は、さっきもちょっと言いましたけれども、例えばテレビではこう放送されて新聞ではこういうふうな見方をされているけれども、いや、それは一面であって、本当に、これをやっているこの方は幼い日はこういうふうなことをやっていて、こういう問題点もあるよみたいなことを書いたり記事にしたりするわけですね。
ですから、さっき、大衆ジャーナリズムと言ったらちょっとあいまいになりますけれども、興味本位な部分もあるんです。要するに娯楽的な要素もあります。あるいは、さっき私がちょっと言いましたけれども、スキャンダルを歓迎するような傾向にある大衆の要望、欲望にこたえるような要素もあります。
ですから、正面から言論に対置するかどうかとなりますと、編集方針としてそういう編集長もいるし編集者もいると思いますけれども、日本の週刊誌の場合はそういう百貨店といいますかいわゆるデパートのような、いろいろなものがあることによってどの嗜好でもって買うか買わないかを判断されたりするわけであって、言論の方向性でもって買うということは、大きな枠ではあると思うんです。でも、それは私はちょっと、ニューヨーク・タイムズと比較して余りにもいいかげんではないのかと言われたら、そういう要素もあるだろうなとしか答えようがないです、率直なところ。
○北神委員 率直な御意見、ありがとうございます。
冒頭申し上げた週刊誌の微妙な位置づけというのはまさに今言われたことで、政策的な発信もしているんだけれども、一方では娯楽性とか読者が求めているようなスキャンダルな部分とかそういった部分も含めているという意味で、非常に日本独特の言論形態ですので、そこが一番私なんかはちょっと懸念しているところもあるんですけれども。ただ、別にきょうは何も結論を出すつもりもございませんし、率直にいろいろお話をしたかったので、いろいろ無礼な発言もあったと思いますが、他意はございませんので、きょうはいろいろと勉強になりまして、ありがとうございました。
ちょっと時間、早目かもしれませんが、終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
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