前回に引き続き、外国人労働者の問題を取り上げる。
基本的な立場をもう一度はっきりさせたいと思う。
私は、本来は外国人労働者を増やすことに消極的である。
我が国は、古代までさかのぼらなければ、外国人が本格的に社会に入ってきた経験がない。その結果、我々は世界にも稀なくらい、きわめて同質な社会に住んでいる。同じ共同体の先祖の遺伝子をもち、同じような家庭・学校教育を受け、同じラジオ体操で準備運動をし、同じ遊びやゲームを楽しみ、同じようなテレビ番組、ヒット曲、流行小説、映画、漫画、新聞、週刊誌、ネット情報に影響を受けてきたのである。
こうしたことから、共通の「常識」というか「空気」というものが、社会を漫然と覆っている。よく「八百万の神」とか「共存共栄」とかが日本文化の特徴といわれるが、それはあくまで「空気を読める」人たちに限定されている。「空気を読めない人は、退場願いたい」というのが、我々の本音ではないか。
外国人が多く同じ地域に住めば、「空気」はかなり乱れるだろう。
もちろん、在日の外国人やその子孫、外国で育った方々もいる。また、信念あるいは天然気質で「空気」に反乱を起こしている方々も、探せばいる。しかし、外国に比べれば、その割合はきわめて少ない。
もう1つ私が消極的な理由は、そもそも我々は「国民国家」の中で生活しているということだ。「国民国家」というのは、基本的にはネーション(同一の民族文化=国民)とステイト(国家)が結合している仕組みである。
国際社会は、この「国民国家」を基礎単位としている。内政も、同じような歴史文化と価値観を共有する人たちが、運命共同体の一員として、お互いを支えあうことが前提になっている。近代国家の黎明期に、各国の国語が人工的に統一されたのは、こうした理由からである。社会保障や災害対策に多額の税金が使われても不満が拡がらないのも、同胞だから許されるのである。
多少の例外や虚構はあっても、諸々の国家は、この原理を中心に国民の統合を図っている。逆に、「1つの民族が1つの国家の中核をなす」という前提が崩壊すると、国民国家はバラバラになってしまう。
共通の伝統基盤をもつ欧州各国も、EUが分裂の危機にさらされているように、「国民国家」の意識は意外と根強い。とりわけ島国である日本では、もっともこの統合原理が強く機能している。もともと同質なので、「国民国家」が成立しやすかったのである。
もちろん、米国などは多民族国家とされているが、これはまず特殊な国である。純粋な「国民国家」ではなく、多民族を包摂する帝国の要素をもちあわせた国家である。成り立ちが異なり、日本海と太平洋に守られてきた日本にとっては、ほとんど参考にならない。
現実に、米国では、同じギリシャ・ローマならびにユダヤ・キリスト教の伝統からやってくる外国人は、比較的溶け込みやすい。それでも過去には、短期間に急激に入ってくると大きな軋轢が生じている。中東、アジア、アフリカからの移民となると、ことはそう簡単ではない。こうした多民族を一国の中で統合するために、「自由・平等・民主主義」という「アメリカンドリーム」の物語を浸透させてきたのである。
それでも、米国は、昔日の帝国(オスマントルコ、ビザンチン帝国、モンゴル帝国等)とは異なる。いざという時には、北欧州系の白人が主流をなす「国民国家」の本性をむき出しにするのだ。トランプ現象とは、こうした「本来のアメリカ人」(原住民は「米国の物語」から周縁化されている)の恨みと怒りにみちた、復権への荒々しい叫び声である。
翻って、我が国はどうか。今は想像できなくても、実際に外国人が大量に住み着けば、ほとんどの国民にとって困惑と苦痛にみちた環境変化があるだろう。困惑と苦痛のガスが充満すれば、それに火がついて、憎悪に燃え上がるのは一瞬である。
「自由」「平等」「人権」も、「秩序」の上にはじめて成り立つものである。社会の混乱を招くややこしいことは、できるならば避けるべきである。
とはいっても、労働力人口がかくも劇的に減少するのでは、たしかに背に腹はかえられない。少子化対策は時間がかかるので、このまま放置すれば、企業は人手不足で外国に移るか、倒産するか、どちらかであろう。若者たちの飯のタネを確保しなければいけない。また、豊かで、活力溢れ、外国にも主張できる国でなければ、私たちの生活はおろか文化を守ることもできない。政治は徹頭徹尾、現実的でなければいけない。
しかし、だからこそ、外国人労働者は段階的に、社会秩序を守れるように受け入れなければ、取り返しのつかないことになる。
そういう意味では、今国会で審議されている「入管法改正案」は、はなはだ心もとない。
本法案の目的は、「特定技能」をもつ熟練の外国人労働者を受け入れることである。資格を得た者は、10年間も日本に滞在することができる。本国から家族を呼び寄せることも可能になり、永住への道も開ける。
問題の1つは、「特定技能」をもつ熟練労働者の受け入れが、「技能実習制度」を前提にしていることである。「技能実習生」と、永住するかもしれない「労働者」は、明らかに違うはずである。ところが、政府は「特定技能者の半分から全員が、技能実習生から移ってくる」と答弁している。
技能実習制度では、日本の優れた技能を勉強できると思って来日した方々が、安い賃金で単純労働をさせられている。不満が募り、とても多くの外国人がすでに失踪している。これは人権問題だけではない。国内の治安問題にもつながる。他方、お隣の中国も、これから人手不足の時代に入る。労働者獲得競争がはじまるのに、「日本での扱いはひどい」と悪評を立てられることは避けるべきである。
また、本格的に外国人労働者を受け入れるのであれば、日本語教育や社会常識、日本人の風習や文化慣習をしっかり教える研修も設ける必要がある。こうした研修に数年かけるべきである。この点でも、今の法案はあまりにも不十分だ。
さらに、今後20年間で、労働力人口が1750万人ほど減ると予測されている。安倍晋三首相は、5年間で最大34万人を上限にすると発言しているが、この程度の数では「焼け石に水」である。これは経済成長にかかわる問題であり、将来の見通しと対策を示さなければ、外国人労働者を受け入れても、中途半端な話で終わる。
最後に、労働力人口の減少は人手不足だけでなく、国力の根本問題である。いくら外国人が増えても、彼らは医療・年金・介護の保険料を払う必要がなく、社会保障の財政は依然として厳しい。また、外国人は自衛隊に入らない。今後想定される入隊率の低下をどうするのか。
やはり、時間がかかっても、地道に日本国民を増やすことは避けられないはずである。
野党も反対だけでなく、少なくとも以下の論点について、早急に方向性を提案して、国民的議論に貢献すべきである。
1)基本的な人口政策の方針を立てて、強力な少子化対策や非正規雇用の規制により、子供を産みやすく、育てやすくする環境を整備すること。
2)職業訓練学校の強化により、「手に職」を得るような教育を充実。今の教育は一般事務職系の社会人を輩出することに偏していて、これが一部の分野の「人手不足」につながっている。
3)技能実習制度という誤魔化しの制度を止めて、労働者の人権保障も含めた、堂々と外国人労働者を受け入れるための法整備。
4)とりわけ日本国民と共存共栄できるための教育を施す研修制度の創設。留学生などすでに日本に馴染んでいる外国人を優先的に対象とすべきである。
5)単純労働者だけでなく、大学の教授、研究者、技術者、芸術家、経営者などを積極的に招くことが重要である。
以上、外国人労働者の受け入れは、我が国の社会のみならず「国民国家」にも大きな影響を与える課題であり、社会実験は許されない。あらゆる角度から議論を深めるべきである。